その他の話」カテゴリーアーカイブ

綺麗な雲

2015年10月26日

今日の夕方に運転してたら、雲があまりに綺麗なので、自動車の中から撮影しました。

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2015年11月12日

今日の雲も綺麗でした。秋の雲って好きです。

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千寿(ちず)の兼六園【中秋の名月観賞会】ライブに行ってきました。

今日は兼六園 秋の城と庭のおもてなし【中秋の名月観賞会】での千寿のライブに行ってきました。ライブは兼六園の公式パンフレットでは19:00からと20:00からの2回と発表されていて、千寿関連の情報では19:10からと20:10からの2回と紹介されていました。兼六園への入園口が蓮池門口、真弓坂口、小立野口の3箇所と制限されていたので18:30に真弓坂口に行ったのですが門が閉じていて、職員の人もいなかったので、蓮池門口に行ったのですが、やっぱり閉じていました。石川門方向から歩いてきた人がいたので、あちらのほうは開いていましたかと聞くと開門は19:00なので開いていなかったということなので待つ事にしました。ポスターを見ると、秋の城と庭のおもてなし【中秋の名月観賞会】は19:00からになっていました。
門には、それほど多くの人が待っている訳でも無かったです。結局18:48くらいに開門しました。
ライブ会場の七福神山前に行きました。会場前ではすでに何人かの観客が待っていましたが、我先にと最前列に陣取る訳でもなく、離れたところで待っている人がほとんどでした。石川県の人は奥ゆかしいです。
俊は、最前列の隅のほうのスタッフの前に陣取り三脚を短く立てて、デジカメとPCM録音できるICレコーダーと超小型マイクをセッティングしました。
千寿さんは19:05くらいに来て、スタッフと話をしていました。千寿さんの生声も聞けたし、顔も真近で見れました。でもあまりジロジロみるのも悪いかなと思って、ほどほどに観察してました。観客も千寿さんに近寄ってくる訳でもなく距離を保っていました。
最初に主催者側からの説明があって、撮影は良いけど、録音はダメということでした。ICレコーダーは外しました。最初に少し静止画の撮影をして、その後、動画の録画をしました。録画が良いのかは不透明だったのですが一応録画しておきました。
最初のステージは19:10から始まって20分間のライブでした。60人程度の観客がいたと思います。ライブが終わって、1人の観客が、「動画の撮影をしたのですが、録画はしても良かったのですか?」と聞いていました。会話が全部聞こえた訳では無く、結果がどうだったか判らなかったので、その人に、動画の撮影についてどう言ってました?と聞くと動画の撮影は良いけど、YouTubeへ投稿するのはダメということでした。
ライブが終わっても、観客は千寿さんに近づく訳でもなく、距離を保っていました。常連さんが千寿さんを取り囲むという場面を予想していたので、意外でした。石川県の人は本当に奥ゆかしいです。
2回目のステージが始まるまで、少し兼六園を散策しました。
2回目のライブは20:00からはじまり20分間の演奏がありました。2回目のライブは正面の後ろのほうから動画撮影をしました。80人程度の観客がいたように思います。1回目も2回目も愛媛県でCMとして流れている「優しい風に吹かれて」が演奏されました。
中秋の名月は、ほんの少ない時間だけ出ていました。
とても良いライブでした。また行きたいです。

撮影した動画を見てみましたが、虫の声が意外と大きく入っていました。音声は時々小さくなったりしたのが気になりました。デジカメのほうで入ってくる音が大きくなった時に自動的に録音レベルを下げているようです。それ以外は、それなりの音で録画されていました。設定の変更が必要だと思い調べてみたのですが、自動的に録音レベルを下げるのを中止する設定は無かったので、録音レベルを下げておきました。
撮影はPENTAX K-01でレンズはPENTAX FA50mm1.4Fを使いました。PENTAX FA50mm1.4Fはさすがに明るく、条件的には余裕でした。2枚目の画像は動画から取り出した静止画です。

ダメ元で千寿プロジェクトに、きまっし金沢での動画のアップロードの許可の申請をメールで送っておきました。

千寿の兼六園【中秋の名月観賞会】ライブ
千寿の兼六園【中秋の名月観賞会】ライブ

日本人はなぜ戦争へと向かったのか

安全保障関連法案が可決されて、戦争への不安が強まるばかりです。

最初は制約の多い法律であっても、いつのまにか制約が段々無くなり、こんなはずでは無かったというのは、労働者派遣法の例を見れば明らかです。
労働者派遣法も1986年に施行された時は、同時通訳や財務処理、ソフトウェア開発など一般企業の正社員には困難な、特筆すべき技能を有している者を「一時的に外部から拝借する」手段という事で始まった制度だったのに、今ではほとんど制限がなくなって、単に労働を安く入手するだけの制度になり、格差の拡大が顕著になってきています。そのうち、格差の最下層の人達は軍隊に入るしか生きる道が無くなる様な世の中になるのではと思います。

安全保障関連法案も、だんだん制約が無くなって、自由に派兵できるようになるのは目に見えています。

2013年に施行された特定秘密保護法も、最初は「特に秘匿することが必要であるもの」という事で範囲を限定して始まったのですが、そのうち国益の名のもとに、政府に都合の悪いものは、漏洩していけないという制度に変わっていくのは明白です。まるで戦前の治安維持法です。

このごろ段々、戦争前の日本の雰囲気に似てきたと言われますが、戦前ってどういう経緯を経て戦争に至ったか興味を持ち、NHKから出版されている「日本人はなぜ戦争へと向かったのか」シリーズを読んでみました。これは2011年にNHKスペシャルとして放送された番組をまとめたものだということです。

第2次世界大戦への道というのは満州事変が大きな起因になるというのが定説のようです。戦争を始める元凶になったのは、関東軍をはじめとする陸軍なのですが、東京日日新聞(現在の毎日新聞)、読売新聞、日本放送協会(NHKラジオ)が戦争を煽った最大の責任者であったようです。
満州事変勃発時に、全国新聞で唯一、戦争に懐疑的だった東京日日新聞(現在の毎日新聞)、読売新聞などを中心とする朝日新聞に対するネガティブキャンペーンによる不買運動は凄まじかったようです。
最終的には経営的にたちゆかなくなった朝日新聞も戦争を煽るようになってということですが、最近の慰安婦問題におけるマスコミ各社の朝日新聞バッシングはそれに似ていると感じます。
大手のマスコミが戦争を煽るようになっても、一部の出版社は戦争に慎重になっていたようですが、最終的には日中戦争が始まって紙の配給をたてに出版をできなくなったそうです。
昭和天皇や内閣が国際連盟の脱退に反対していたのを、マスコミが国際連盟の脱退をたきつけたという事もあったそうです。

満州事件の発端になった柳条湖事件は、日本の所有する南満州鉄道(満鉄)の線路が爆破された事件で、実際には日本陸軍(関東軍)が爆破したものですが、日本陸軍(関東軍)は中国軍による犯行と発表して、満州での軍事行動およびその占領に向かったと言う事です。現実にはマスコミ各社も知っていた事のようですが、国益が最重要ということで沈黙を保ち、戦争熱を煽る報道を続けたそうです。
国益が最重要という名目で、情報を制限するって事は、昔だけのことではなくて、現在でも特定秘密保護法によって法律の名の下に堂々と行われる体制になりました。

1920年代末から始まった金融恐慌による不景気から満州事変による景気回復を経て、戦争支持への熱が大きくなってきた戦前と、労働者派遣法による格差の拡大で、生活に苦しむ人が増えてきている現在は決して無関係ではなくなっていると感じます。そのうち、不満が鬱積して、ヒトラーのようなカリスマ性のあるリーダーや組織を求めていくことになるいのだと思います。最近でも橋下徹氏のような極右の政治家が総理大臣になる事を期待された時期もありました。

戦前から戦争中において、日本には統一した指導者が存在しなく、国益を第一に考えるべき場面にあっても、組織優先、省益優先という発想で陸軍と海軍が独立して違う戦争をしていたそうです。
現在、日本において、何か問題が起きても、責任の所在を明らかにしなく、誰も責任をとらないというのと、状況は同じですね。
戦争を始めるときも、戦争をやめる時も、誰も決断できなく、判断を先延ばしして、なりゆきにまかせて最悪な事態に陥ったということのようです。
途中で中国から撤退すると、20万人の兵士の死、年間国家予算の7割に達した陸海軍費の責任を問われる軍の面子が最重要で、その後、日本がどうなるかは二の次だったようです。

やっぱり責任所在を明らかにするというのは大切だと思います。大きな予算や制度については、主要な責任者(複数人)をはっきりしてから執行するような制度が必要だと感じました。

戦争が決して起きない、みんなが安心して生活できる世の中になると良いなあ・・・・
労働者派遣法が成立する前の日本に戻ってほしいなあ

NHKスペシャル「日本人はなぜ戦争へと向かったのか」の番組を見てみたいとネットで検索したのですがDVDが20520円もするんですよね。公共放送として、こんなに大切な番組のDVDは誰もが見やすいように、格安で販売しても良いような気がするんですけど・・・・

ひがし茶屋街の町並みと文化を守る会って変じゃない?

今日の朝刊に、ひがし茶屋街の2階の窓を開けている家主に、「金沢東山・ひがしの町並みと文化を守る会」が景観が悪くなるから窓を閉めるよう求めて、押し問答になったという記事が出ていました。
2階の窓をあけたら風情がないとか、上から見下ろされることを嫌がる人もいるということのようです。実際に、ひがし茶屋街が茶屋街として活動していた時には窓を開けたりしなかったのかなあと思うんだけど・・・ 開けないのなら窓はつけないと思うんですよね。
浅の川園遊会でひがし茶屋街で越中八尾おわら踊りが行われている時も、2階の窓を開けてお客が見学していたと思うんですが、そういうのもダメだと言うのでしょうか?

最近では、熊坂ノ庄スッポン堂商事の出店に対して、手続き上の問題があったとして出展反対の運動をしたりして、」最終的には販売品目を制限するということで和解したという騒動もありました。

元々、ひがし茶屋街って遊郭みたいなもので、品位とか言われても違和感があります。あれだけお土産店だらけにしておいて、今更風情なんて主張してもどうかと思うんだけど・・・
観光地として重要な地域になっているのは事実で、外観を損ねないというのは大切な事だと思うので、建物に細かい規制を設けるというのは良いと思いますが、ちょっとやりすぎだと思います。なんか既得権益の過大な主張と感じるのは俊だけなのかなあ?