11月14日は「世界糖尿病デー」で金沢城公園の石川門、五十間長屋と河北門が青色にライトアップされるという情報は、随分前からキャッチしていて、行くつもりをしていました。それに先がけて12日に、石川門、五十間長屋と河北門が青色にライトアップされていると写真付きで新聞に紹介されていました。新聞によると20日まで18:30から22:00まで実施されるという事でした。
14日は忙しかったので、今日行くことにしたんです。
駐車場に自動車を停めて、金沢城公園に行くと、石川門が青色のライトアップがされていましたが、門が閉められていて中に入れなくなっていました。
どうも20日までライトアップされているというのは石川門だけだったようです。
石川門、五十間長屋と河北門が青色にライトアップされていたのは、いつまでだったかは判らないですが、いいかげんな記事を書かれると、本当に迷惑です。
「石川県の観光」カテゴリーアーカイブ
山代温泉 ゆのくに天祥に泊まった
大学の同窓会が「ゆのくに天祥」でありました。「ゆのくに天祥」に決めたのは自分では無いのですが、「ゆのくに天祥」との打ち合わせや折衝は自分が対応しました。
打ち合わせの対応は、とても良かったし、問い合わせに対しても誠実に対応していただけました。
チェックインは15:00からですが、ロビーは時間前でも自由に使えるので助かりました。
チェックインの時間になり、受付などに使う一番大きな部屋に入りました。フロントには、同窓会に参加する人は、その大きな部屋に案内してもらうように頼みました。
集合は17:00だったので、ばらばらに人が集まる状況でした。その間、仲居さんが廊下に待機していて、人が来るたびに、その人に合う浴衣を用意してくれていました。この辺りは感心しました。
ちょっとインターネットをしようとしたのですが、電波が弱くて全くつながりません。楽天トラベルでは部屋で無線LANを使えることになっていましたが、公式サイトではインターネットコーナーとその付近だけ使えると掲載されていました。こういうのは、ちょっと残念でした。
お風呂は、男性用と女性用が、毎日入れ替わりになるシステムになっていて、夜と朝とで違うお風呂が楽しめます。お風呂は3つあるのですが、朝2つのお風呂に入るほど元気はありませんでした。ちなみに朝、使い捨て髭剃りを使ってみましたが、切れが悪くて、こんなの使っていたら髭剃り負け必至です。いくら節約と言っても、これはあまりにもお粗末だと思いました。
ボディソープ、シャンプー、リンスは馬油を使ったものが置かれていました。
草履は自分で目印の札をつけられるようになっていたのは感心しました。どうせなら、部屋や宴会場も同じ配慮があっても良いかなあと思いました。
夕食は、蟹があまりにも酷くて、それを隠すためか、酢醤油があまりにも酸っぱくて咳込みました。あんまりなので、どこの蟹か仲居さんに聞いたのですが、冷凍で輸入ものだということでした。やっぱりねえ・・・・。その他に、鍋の魚も新鮮さを感じなくて、刺身も普通な感じで、全体的にかなりハズレの部類の夕食でした。温泉旅館の食事ってこんなもんなのかなあ。
朝食は、麦飯にとろろいもなどが付いていて、品数も多く美味しかったです。
夕食には大いなる不満を感じましたが、同窓会は盛り上がったので、まあ良しとしようかな。
北鉄のバス検索が進化した
北鉄のホームページは使いにくいし、チケット購入のIT化の遅れなどがありダサイ会社だなあと思っていたのですが、先日路線バスの検索をしたら随分便利になっていました。出発時間と乗車バス停と目的地バス停を入力して検索すると、その時間から数本便が結果として出てきますが、例えば金沢駅出発だと乗り場や到着時間、どこ行きとかも表示されているのでわかりやすいです。
久しぶりで、金沢駅からバスに乗りましたが、観光地に行く場合に、どのバスに乗れば良いのかも、表示がわかりやすくなっていました。
金沢市寺町台 伝統的建造物群保存地区を巡る
石川県主催の ふるさとモット学び塾 ふるさとふれあい現地講座 第6回「金沢市寺町台 伝統的建造物群保存地区を巡る」に行ってきました。金沢工大准教授山崎幹康氏が講師で特に建築物がテーマになっていました。1日に2回あって、各20名が定員ということでした。
1か月以上に申し込みの締め切りがあって、一応抽選に当選したと電話がありました。先だってメールで連絡したのですが、最終的な返答期間を過ぎていたのに返答がなかったので電話したという事でした。なんでメールが届かなかったのかは不明です。
9:00に、にし茶屋街に集合だったのですが、あのあたりは駐車場に苦労しそう(実際には近くに安いコインパークがある)なので、バスで行きました。晴れてたら自転車という選択もあるのですが、天気が雨降りそうな雰囲気もあったのです。
ちょっと早く着いたので、付近を散策しました。金沢の赤線地帯・にし茶屋街裏「石坂」 のほうも通ったのですが昔の雰囲気は全く残っていませんでした。
集合時間に遅れてきた人もいたのですが、参加者は定員20人いました。抽選はあったようです。
最初に、にし茶屋街の建物の説明がありました。あの当時、2階建ての建物は許可されていなくて、茶屋だけが許可されていたそうです。茶屋街でも主計町茶屋街は、後でできて新しく、元々は、にし茶屋街とひがし茶屋街だけしかなかったそうです。にし茶屋街とひがし茶屋街の近くに寺院群があったのは偶然ではなく必然だったそうです。
忍者寺(妙立寺)の裏を通って、承証寺に入りました。承証寺は大きなお寺で、火災にあっていなく昔の建築様式が残っている建物だそうです。本堂に入って住職と講師の説明がありました。本堂に俵屋宗達によって描かれたかもしれない(と住職が言っていた)板戸が保存されていました。これは撮影不可だということでした。本堂には竜が彫られたりっぱな欄干もありました。
なお、寺町寺院群には浄土真宗大谷派の寺院はほとんどないそうです。
六斗の広見で説明があり、龍雲寺の横の小路を通って大円寺に行きました。大円寺は拝観料500円となっていますが、予約時のみ拝観を受け入れているようです。入り口は普通の住宅の玄関で、普通の家の廊下みたいなところを通って、蔵の中に入りました。蔵の中には大きな(4m33cm)地蔵が安置されていました。大円寺には人骨地蔵があるとは聞いていて、かなりおどろおどろしい物を想像していたのですが、塗料に人骨の粉が入っているだけだということです。誰も聞かないので、恐る恐る写真を撮っていいですかと聞くと、どうぞどうぞということで許可が得られました。
住宅の2階は展示室になっていて、絵や道具など、りっぱそうなのものが展示されていました。こちらも写真を撮っていいですかと聞くと、どうぞどうぞということで許可が得られました。後で大円寺由来の説明書を見ると、撮影は許可を受けてくださいと書いてありました。説明書には大円寺には庭園があるって書いてありました。ありゃ見てくるのを忘れました。ちなみに本堂も入りませんでした。もったいなかったです。
最後に高岸寺に入りました。高岸寺はとても大きくて美しいお寺です。建物の美しさという意味では寺町でもNo1のお寺だと思います。
高岸寺は金沢城の守護のためのお寺で、前田家とは親戚筋にあたるそうです。以前は鐘楼から金沢城が見渡せ、有事が起きると、鐘の音で金沢城に知らせる役目を仰せつかっていたそうです。今は増築したので、金沢城を見渡すことはできないそうです。そういう訳で、高岸寺の鐘は一度も鳴らしたことはないそうです。実際に急な梯子を上って鐘楼に入ったのですが、なかなかの眺望でした。
座敷からの眺望もなかなかのものでした。
予定の11:30を少し過ぎて、高岸寺で解散となりました。
晩秋の七尾城址に登る
今日は石川県自然解説員研究会主催の「晩秋の七尾城址に登る」に参加しました。週間天気予報では時々雨だったので、行くのを断念していたのですが、昨日のお昼の段階で、9:00以降は曇りに変わったので行くことにしました。
7:00に家を出て、コンビニ(デイリーヤマザキ)で食べ物を購入して、吉野家で朝食をとって、集合場所の七尾城山グランド駐車場(七尾市営プール側)には8:40に着きました。集合時間の9:00には余裕で着きました。
石川県自然解説員の人はもう来ていて、さっそく名簿に名前を記入しました。石川県自然解説員研究会主催のイベントには何回か参加したので、知った顔がぽつりぽつりいました。今日の参加者は石川県自然解説員の人を含めて20名でした。その内、石川県自然解説員の人は3分の1以上だと思います。
全員の自己紹介(ほとんど市町村と苗字だけ)とストレッチをして出発です。
田んぼのあぜ道を通り、登山道に入っていきます。花が咲いていたり、めぼしい植物があると、その都度止まって説明があります。俊は後から花の名前を調べるのが面倒なので、石川県自然解説員の人に、あれこれ名前を聞きます。その都度、きちんと名前を教えてくれます。
葛の葉が3つに分かれているのは太陽に向かって陽の光を集めやすくするためで、あまりに陽が強すぎると完全に上向きになって光を遮るんだということなど教えてくれました。途中で木の実を食べたり、ムカゴを生で食べたり、噛むと辛い草も体験しました。
二の丸ではカエデの葉を集めるゲーム、本丸では宝探しゲームもしました。途中見える展望はとても美しかったです。
本丸で昼食をとりました。デイリーヤマザキのおにぎり(梅干しと昆布)は思いの外美味しかったです。セブンイレブンなどの他のコンビニより美味しいのではないかと思いました。
本丸では七尾城の専門家の話も聞けたし、駐車場ではボランティアによる七尾城の歴史も聞けました。
七尾城へは何度も行ったことがあるのですが、七尾城の歴史は何ひとつ知らなかったので、話を聞いてびっくりしました。
七尾って昔は、物凄く栄えていて、日本でも有数の町だったそうです。それだけ栄えたのは、食物が豊かで、京都市にも、食物を運んでいたそうです。室町時代には将軍の3大役人府中守護である畠山氏が応仁の乱で、京都から守護を務めていた能登へ移り、守りのために築城したものが七尾城だということでした。上杉謙信などが攻略を企てるものの攻めきれず、最終的には上杉謙信が、畠山家の内乱を引き起こすことによって攻略したということです。畠山家さえ一致団結してれば、攻略されることは無かったであろうということでした。それほど良く出来たお城だったようです。
その後、織田信長から能登一国を与えられた前田利家が七尾城に入城するものの、七尾城が山の上にあるということで、住みにくいために、小丸山城を築城して移住したそうです。このまま七尾城を残しておいて、七尾城が敵に占領され拠点として使われたら困るということで、全部壊してしまったということです。石垣は残したのですが、石垣は近くにあった石を平積みにして造ったもので壊れやすく何度も修復したそうです。それでも、ここまで残ってきたのは、七尾が地震などの震災に合わなかったからだということでした。
この季節には花は少ないです。キノコがあちこちで見られましたが食べられないものばかりだそうです。