金沢の葬儀事情

父親が亡くなった事から、金沢の葬儀の事情に興味を持って情報を集めました

火葬だけの「直葬」で寺とトラブル

ヤフーでの弁護士ドットコムニュースに興味深い記事がありました。

公正取引員会が今年3月にまとめた報告書によると、「一般葬」が減少傾向にあると回答した葬儀業者が多く、「増加傾向にある葬儀」を尋ねたところ、1番多かったのが「家族葬」で51.1%、「直葬」が26.2%で続いたそうです。

週刊朝日(9月1週号)では、葬式をしないで火葬だけの直葬後、檀家が遺骨を持って寺を訪れると、寺から「葬儀をやり直せ」と怒られた事例を紹介している。檀家がそれなら「出て行く」と言い返したところ、「離檀料を200万円払え」と請求された事例があったそうです。

離檀料というのは、法律上の明確な定義はないけれど、一般的には檀家としての地位を解消し、墓地使用契約も解約する際の清算金という意味合いだそうです。

名目上は離檀料であっても、実質は墓地返還にあたっての修復費用相当額程度である場合には、裁判でも慣習上の債務として支払義務が肯定されることはありえるそうです。墓を新たな場所へ移す「改葬」や離檀料をめぐるトラブルは、近年特に増えているそうです。

お墓ってリスクが大きいものだという認識が必要になっているのかもしれません。

変わりゆく「葬式」

プレジデントオンラインによると、全国のおよそ200の葬儀業者を対象に2013年の1年間で直葬がどのくらい行われたのかを調べた結果、関東地方で葬儀全体の22%、近畿地方で11%だそうです。

鎌倉新書が2013年に第1回、2015年に第2回を実施した「お葬式に関する全国調査」の都道府県別平均会葬者数を見ると、東京都は第1回66人、第2回45人で、増減率は-31.8%。愛知県は第1回84人、第2回58人で、増減率は-31.0%。大阪府は第1回58人、第2回44人で、増減率は-24.1%。全国平均は、第1回78人、第2回60人、増減率は-23%だったそうです。
わずか2年の間に20~30%も会葬者数が減少しているそうです。

さらに、2015年の時点での葬儀の形態としては、東京都で一般葬33.9%、家族葬44.6%。愛知県で一般葬・家族葬ともに46.9%、大阪府で一般葬40.9%、家族葬43.2%と、特に三大都市圏で、一般葬よりも家族葬の割合が増えていることが分かったそうです。

寺町のお寺が仏像を捨てた

今日の朝刊で、金沢市寺町の法華宗陣門流実成寺で、仏像をまとめて廃棄しようと思ったけど、他の仏像と較べて丁寧に彫られて、像の底にただし書きがあった仏像があったので、石川県立歴史博物館の学芸主事に見てもらったところ、有名な仏師(金沢の仏師松井乗)が製作した「日蓮聖人座像」と「多宝如来、釈迦如来が鎮座する一塔両尊座像」であることが分かったということで仏像と一緒に写った住職の写真がでかでかと掲載されていました。

それにしても、お寺が日蓮聖人、多宝如来、釈迦如来の仏像を廃棄しようとするなんて、なんて恥知らずな事だと思いました。よくも恥ずかしげもなく新聞に掲載されることを了承したもんだと呆れるばかりです。

蓮覚寺で蝋燭で灯したキリコを見てきました

今日は、新盆の最終日という事で蝋燭で灯したキリコを見てきました。
卯辰山山麓寺院群の日蓮宗のお寺(蓮覚寺、妙応寺、円光寺、長久寺など)では7月16日の送り火の時に、先祖さまに灯りをさしあげ霊をお送りするため、キリコにロウソクを灯しお経をあげて墓地を周るという風習が残っています。
ちょっと早めに着いたので、卯辰山山麓寺院群を散策しました。あちこちで、いろんな調子のお経が聞こえました。
ほとんどの墓地では、キリコは板状のものがほとんどでした。
蓮覚寺、妙応寺、長久寺は、箱状の昔ながらのキリコがほとんどでした。
蓮覚寺では、事前にロウソクが入れられたキリコを、19:00から、住職が1つ1つ灯し始めます。19:30には、また1つ1つ消していました。19:00だとこの時期はまだ明るいので、19:30ぎりぎりの時間が最も美しかったです。
妙應寺(妙応寺)や円光寺では19:20からキリコを灯し始め、お経を上げながら墓地を周っていました。

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アマゾンがお坊さんをネット宅配

インターネットで僧侶の派遣を定額で受け付ける事業を展開するみんれび(東京都)が一周忌などの法要の際に読経を行う僧侶の手配を3万5000円で受け付ける「お坊さん便」をアマゾンのサイト内で行うそうです。
浄土宗、真言宗、曹洞宗、臨済宗、天台宗、浄土真宗、日蓮宗の7宗派の全国の僧侶約400人が手配に基づいて読経などを行うそうです
「お坊さん便」は事前予約が可能な一周忌などに限定で法要予定日の5カ月前から2週間前までに予約が必要ということです。

お墓、葬式、戒名は本当に必要か

お墓、葬式、戒名は本当に必要か/ひろさちや著 を読んでみました。

現在における冠婚葬祭といった習慣は一種の流行で、定着したのは戦後になってからだそうです。

2014年の調査によると、関東地方では22.3%が火葬場での直葬になっているそうです。

平安時代末期から鎌倉時代の法然や親鸞は、「南無阿弥陀仏」と称えるだけで、誰もが極楽世界にできると教えています。ちなみに親鸞は自分が死んだら賀茂川に流して魚の餌とせよと遺言しているそうです。
つまり仏教においてはお葬式ははしなくてもよく、それが仏教の教えなんだそうです。

仏教においては、元々、葬式という概念は無く、神道においての行事だったのだそうです。神道について、葬式は死者の霊魂をホトケにするためのものだったそうです。
33回忌、50回忌という概念も神道のもので、この世に対する執念をもった霊魂は荒御霊(ホトケ)であり、荒御霊に鎮魂儀礼を施すことにより、落ち着いた柔和な和御霊(カミ)になるそうですが、荒御霊が和御霊になるためには33年から50年かかるといところから来ているそうです。つまり仏教とはなんの関係も無いそうです。

四十九日は、インドにおいて、輪廻転生の考え方から、死者は四十九日で再生するので死者への追悼を四十九日で打ち切るという風習から、神道が影響を受けて四十九日が特別な日になったそうです。そういう訳で、インドにおいては四十九日が過ぎると、死者への追悼はしないそうです。

3回忌は儒教では父母のために子は3年間(足掛け3年なので25ヶ月)喪に服さねばならないとされるところからきているそうです。

お盆も神道の行事で、1960年ごろまでは浄土真宗においてはお盆の行事は行わなかったそうです。
ちなみに、お盆に帰ってくるのはカミになっていないホトケの段階での霊だけだそうです。

火葬が普及したのは1980年代以降  火葬は元々インド人がやっていたもので、焼け残った骨すべてをガンジス河に流していて、火葬をして骨を墓に埋葬するのは日本だけの特異な葬法ということです。

墓は、死体を埋葬したあと、そこに大きな石を重しとして置いて、死体が墓穴から出てこないようにしたものが起源だそうです。

現在のように、仏教が葬式仏教になってしまったのは、キリシタン対策のために江戸時代に導入された寺請制度(檀家制度)の影響だということです。寺請制度(檀家制度)によって、檀家のお布施が義務になって、信仰の布教が必要なくなり、菩提寺を粗末に扱っていると宗門人別改帳に請印捺さないと圧力をかけたりすることになったりしたそうです。しまいには、仏教寺院が「御条目宗門檀那請合之掟」を偽作して、寺の行寺に参加すること、寺の雑役・修理・建立をつとめること、葬式には檀那寺の差図を受けること、死者に剃刀を与え、戒名をつける際は、住持が死相をよく見届けた上で引導を渡すこと、中陰・年忌・命日あるいは先祖供養を怠らないことなどの「掟」を細々と規定して、お寺の収入を増やしていったそうです。
もともと江戸時代以前の庶民は、年忌法要はやっていなかったそうです。このようにして、年忌法要は江戸時代に寺院が金儲けのために始まったそうです。

寺院消滅

寺院消滅(鵜飼秀徳著)を読みました。
現在、全国に約7万7千の寺院があり、その内住職がいない無住寺院は約2万に達していて、宗教活動を停止した不活動寺院は2千以上あるとのことです。
不活動寺院を廃寺にしようとしても、お寺は通常独立した個々の宗教法人なので、手続きが大変のようです。住職や寺の責任者、檀家総代、寺族の所在の確認をしての手続きが必要で、そのうえ解体費用がかかるので、そう簡単にはいかないそうです。
そもそも、今のようにお寺が尊敬されない存在になった最初のきっかけは、江戸時代の寺請制度だということです。寺請制度は、地域の寺の檀家になることを強制し、寺は宗門人別改帳を通じて、檀家の管理・監視することによって国家の内部統治に協力したということです。
でも江戸時代後期から明治9年頃にかけて、廃物毀釈により仏教弾圧が行われ、多くの寺院が廃寺になり仏像などが破壊されたそうです。これにより仏教の弱体化が図られたそうです。
明治5年に「自今僧侶肉食妻帯蓄髪等可為勝手事」があり、僧侶の「肉を食べる・妻をめとる・髪を生やす」ことを解禁し、住職の世襲も明治以降認められるようになっていき、僧侶の世俗化が図られ、僧侶が尊敬の対象ではなくなっていくことになったようです。
その後、過去の戦争について、不殺生戒を真っ先に守らなければいけない立場の僧侶が、大東亜戦争に反対するどころか、多くの宗派ではゼロ戦や軍艦を国に寄付したり、戦争協力を申し出たりして戦争に加担したことにより、国民の信頼を失ったようです。
それに加えて、戦後のGHQが指導した「農地改革」により地主として多くの土地を小作に貸していた寺院所有の農地が失われ、安定した収入が失われ、寺院の弱体化が決定付けられたようです。

お寺が専業で食べていくには檀家が200軒以上ないと難しいそうです。
葬儀のお布施は地域によって随分違うようで、東京は極めて高く50万円、京阪神や名古屋は20万円から30万円、地方都市だと10万円、地域によっては3万円から5万円というところもあるようです。
檀家が少なく収入が少ない寺院も宗に収める冥加金は結構な高額で、お寺も、いろいろと大変なようです。

お寺の収支報告書

お寺の収支報告書/橋本英樹 祥伝社を読んでいます。曹洞宗の実際の住職が、現在のお寺経営のお金と制度の問題を執筆した本です。

現在のように、住職が妻帯して息子がお寺を継ぐようになったのは明治時代からのことで、せいぜい100年の歴史ということだそうです。

戒名って、戒名を授かる事によって僧侶(仏弟子)になるってことだそうです。つまり死後に出家するってことだそうです。こういう死後に出家するというシステムも江戸時代以降のものだそうです。
戒名も階級化されていて、戒名を授かる時にも階級によって支払うお金は違いますが、法事でも戒名の階級によってお布施の金額が違うそうです。
戒名なんて、いらんよねえ。最近では、俗名での葬儀も増えてきているそうです。

ちなみに檀家制度というのも、江戸時代にキリスト教禁制のために「寺請制度」というものが制定されて日本に住むすべての民衆は幕府が定めた仏教宗派のいずれかに属さなければいけなくなったのが事の始まりで「寺檀制度」「宗旨人別改帳」を経て現在に至っているそうです。

葬祭にかかる費用についても祭壇に飾る花代が何十万もするのですが、普通バラ1本100円もしなく500本飾っても5万円にもならないなんて事も書かれていたりします。
葬祭業者に僧侶を頼んだりした場合でも僧侶のお布施の半分以上を中抜きされる例も少なくないそうです。葬儀には複数の僧侶が関わることが多いのですが、中心になる僧侶(導師)に、残りの僧侶(脇導師)を呼んでもらう場合も、僧侶(導師)に中抜きされるのが一般的との事です。葬祭業者に頼んだ場合、僧侶(脇導師のお布施は、葬祭業者とと僧侶(導師)に2重に中抜きされることも多いようです。

墓地については、「埋葬又は焼骨の埋葬は、墓地以外の区域に、これを行ってはならない」という法律があり、散骨や自然葬も厳密に言うと法律違反になるようですが黙認されているそうです。
墓地は、市町村などの公営、公益法人(認定が難しい)、お寺が関わる墓地の3種類が中心ですが、石材業者などが運営している墓地は、お寺の名義だけ借りて運営している場合が多いそうです。お寺から管理と運営を委託されている形をとっているそうです。墓石を販売して、墓が売れなくなった墓地は、お寺に運営の権利を渡してしまうという例も多いとの事です。お寺は土地が増えて、年間の管理料や護持会費が入ってくるのでお互いの利害関係が一致するということです。

それだけ墓石の利益が多いということなんでしょうが、墓石の原価率って150万円から200万円の墓石で問屋原価が30万円ほどだそうです。もちろん加工も必要だし、年がら年中墓石の需要があるわけではないでしょうけど。
お寺が経営する墓地では、お寺に入る墓石のマージン(お水代)は10~20%だそうです。その他に建墓手数料や別途志納金を納めてくださいと言われたりするようです。

墓地には、年間の管理料や護持会費などは別途かかります。永代使用料を支払っても年間の管理料や護持会費を払い続ける必要があります。年間の管理料や護持会費を払わなければ墓は撤去されますし永代使用料も返還されません。

筆者である僧侶は、それらの矛盾した制度を廃止したうえで、お寺の運営を続けているとのことです。読んでみる価値はあると思います。
まあお寺がたくさんあるのも金沢の要素の1つなのでお寺が無くなっていくのも寂しいものがありますが、今のままで良いって感じもしませんよねえ

真宗大谷派の市民公開講座

2008年10月16日

今日、真宗大谷派金沢教区主催の市民公開講座に行ってきました。「南無阿弥陀仏の葬儀」という内容に興味があったので行ってきました。金沢東別院で行われて無料でした。
1時間30分の講座でした。

七七日の法要や百ヶ日、1周忌、3回忌の法要は十王経から来ているそうです。閻魔大王の審判がその時期に行われるので、追前供養をして生前の悪いことを帳消ししてもらうために権威者(お坊さん)に導いてもらうということでした。それに対して親鸞は権威者は不要だと唱えたそうです。
そういう親鸞が開祖の浄土真宗でも七七日の法要や百ヶ日、1周忌、3回忌の法要を行っているのは、どうしてなのか今度聞いてみたいと思いました。

浄土真宗は、どんな人でも死んだら佛菩薩(諸佛)になって、後生の一大事を気づかせる存在となるといことでした。
死んで佛菩薩になるのだったら閻魔大王の審判の対象になる事は無いと思うんだけど、浄土真宗として七七日の法要や百ヶ日、1周忌、3回忌の法要はどういう位置づけに考えているのか今度聞いてみたいと思いました。

後生の一大事というのは、生まれてから、いろんな事で思い通りにならなくて、理想とのギャップを感じるけど最終的には仕方が無いと諦めるしかなく自分が生きる意味に疑問を感じて自己不信(死んでも死に切れない)に陥る事が多いけど、それは娑婆世間での知恵だけで考えるからで、縁のあった人の死によって仏教(出世間の法)の本当の知恵に気づき生きる意味を知るということでした。

浄土真宗では冥福を祈るという考えはないそうです。冥土、冥界、冥福という世界があって、死後に、明るい世界である冥福に行ける事を祈るということなのですが、浄土真宗では死後に全ての人が佛になるので、冥福や天国へ行くという考えはないそうです。

現代の葬儀は主役は故人ではなく葬式を出す人になっていると主張されていました。葬儀で祭壇を飾り、花を飾るのは故人のためというより葬式を出す人の思い(娑婆世間での体裁)によって華美になっているということでした。ちなみに寺の関係者の葬儀は祭壇を飾らず野卓というものを使い、花も飾らないそうです。

葬儀で列席した人にして欲しい事として
1.亡くなられた人に一生長い間、よく頑張ってご苦労様と頭を下げる
2.たったひとつの同じものが無い宝物である故人の人生に縁をいただいたことにたいして感謝する
3.死を持って、終わりある人生をかんがえさせてくれることに対して感謝する
をあげてました。葬式とは人生の卒業式のようなものだとも言ってました。

浄土真宗での葬儀についての小冊子(3冊で300円)が販売されていたので購入しました。

今回の市民公開講座は新聞の記事で知ったのですが、来月も含めて4回行われるようです。でも、当日、今後の予定表とかの案内は無かったですし、金沢東別院のホームページを見ても、今回の市民公開講座については何も掲載がありませんでした。あまり熱心とも思えないです。多分、広報誌を継続購読している人にだけ案内しているという感じなのだと思います。

2008年11月5日

今日、真宗大谷派金沢教区主催の市民公開講座に行ってきました。金沢東別院で行われて無料でした。「南無阿弥陀仏の葬儀」という内容で4回行われ今回は3回目でした。今日は医師が講師で、医学から見た生きるということと死ぬということがテーマでした。1時間30分の講座でした。

今日は食事が遅くなって、慌てて家を飛び出して、メモ用紙と財布を忘れて行ってしまいました。

医学は生老病死の四苦のうち、生と老病死を分断し、生は善、老病死は悪と考えるから労病死の対応ができない。生きる意味を考える上でで世間的に幸せになるという基準で考え、老病死をマイナス条件という基準で考えるので人間の一生は不幸の完成という見方しかできなくなる。
医療というものは老病死の問題について治療によって先延ばしはできるけど、根本的な解決はできない。
ある年齢になると、健康で長生きというより成仏という仏教的な考えをすることの必要性がある。死ぬことを心配して生きるより鷹揚に生きるのが良いのだけれど理性・知性・分別を基準に考えると老病死を否定する考え方しかできないので、なかなかそのような生き方ができない。
客観的事実に基づいた現代の医学では一断面しか見ることができなく、仏教的な視点による物語に基づいた医学により死んで行く事を受け取る文化が求められている。

人間として生まれた意味は現代の理性・知性・分別に基づいた考え方では理解できない。仏法的な考え方により、仏様に対してあまりにも小さい自分の愚かさに気づき人間に生まれてよかったという境地になることができる。仏法と関わることにより、死んでいくことはなんの心配もない、つまり死んでいくことは浄土に帰るという事に気づくことになる。死んだことで浄土に導いてくれる阿弥陀様に対するお礼が南無阿弥陀仏である。
清く正しくでは生きていけない先祖の過酷な人生があったなかでも阿弥陀如来の救いで生き延びてきて、自分達が生を得られたことに対する自覚の深さによって過去・未来の本当の意味が見えてくる。

仏教については理性・知性・分別による客観化した考え方では理解できない。仏は私人より遥かに大きい存在なので、疑いの目で見て理解しようとしても理解できない。

おおまかには、このような内容でした。

お寺とのつきあいは、いろいろと大変

2007年6月28日

今日、お寺さんから須弥檀(しゅみだん)納骨合同孟蘭盆(うらぼん)法要の案内の葉書がきました。
お寺に納骨した人が対象の法要のようです。7月8日に行われるのですが10日前に突然通知が来たのでびっくりしました。

ネットで検索しましたが、あまり須弥檀納骨合同孟蘭盆法要って一般的で無いようでよくわかりません。
納骨合同法要で検索したらペットの場合には、よくあるようです。

2007年7月6日

今日、父親の分骨を納骨したお寺で、納骨合同孟蘭盆(うらぼん)法要がありました。 前もって知り合いに聞いたのですが、平服でよくてお布施も2000から3000円で良いとのことでした。その他に各自のお骨に単独でお参りする時に1000円のお布施を渡すということなので、3000円と1000円を入れたお布施袋を用意していきました。数珠と正信偈の本も持って行きました。 駐車する場所が心配だったので、早めに行きました。やっぱり駐車する場所が少なくて、ギリギリ駐車することができました。受付で3000円のお布施袋を出して、供物(柄の長い蝋燭用のライター)をいただきました。受付ではお布施の額を記帳していて、見てみると2000円とか3000円とか5000円とか10000円とか、いろいろでした。本堂内では永代経代のお布施した人の名前と金額が書かれた紙が貼られてました。30万円とか50万円とかいう紙が何枚も貼られてました。 ちなみに永代経法要は6月に終わっていたようです。ちょっとホッとしました。 定時にお経が始まり、焼香をして、その後、みんなで正信偈を合唱しました。 それが終わると、他のお寺からきたお坊さんの法話があるのですが、法話の前に賽銭をもとめる籠をまわされ1人100円を籠に入れました。途中休憩があって、その時にまた賽銭をもとめる籠をまわされ再び1人100円を籠に入れました。 法話が終わり最後に恩徳讃という歌を合唱して納骨合同孟蘭盆(うらぼん)法要が終わりました。納骨合同孟蘭盆(うらぼん)法要はお寺に分骨した人全員を対象に毎年行われるようです。 そのお寺では分骨の納骨堂は本堂の地下にあるので個別に出したりお参りしたりはしないそうです。 今日の法話は、浄土真宗にとって法事とはどういうものかということでした。 浄土真宗では法事は亡くなった故人の霊を慰めたり、供養したりするものではなくて、法事に参加した人が、自分の生き方を考えるためのものだということでした。煩悩ばかりの人間も亡くなると同時に煩悩の無い仏となり、仏さんは決して生きている人間を見捨てたりしない。そういうことを南無阿弥陀仏、諸行無常という言葉で知らせてくれている。故人が亡くなって、法事があることによって、縁あって仏の教えに触れることができたことに感謝しないといけないというような内容でした。確かに浄土真宗のお経って、先祖供養するような内容でなくて、親鸞聖人とかの浄土真宗の高僧が行ったことを称えるような内容なんですよね。 確かに、そういう事も大切だけど、やっぱり先祖を供養して感謝するための法事という方が、感覚的にしっくりくるんですけど。 納骨合同孟蘭盆(うらぼん)法要は2時間くらいかかりました。

2008年10月15日

今日は月命日でお坊さんが来ていて、時間が合わなかったので会わなかったのですが、いろいろ話があったそうです。

「ほんこさん」という法要をしないといけないそうです。次の月命日にほんこさんをするということでした。仏壇をきれいにして赤い蝋燭をたてて打敷(うちしき)は金襴のあでやかなものにして、マル餅と松の入った花を飾るそうです。
ほんこさんって何かなと調べてみたら正式には報恩講というようで、親鸞の命日11月28日を中心にして、聖人の徳をたたえ、恩に報いる法要だそうです。知り合いから聞いた話では、お布施は1万円で食事代5千円包むそうです。

その他に、お寺を維持するための協力金を年額6千円払って欲しいと言われたそうです。

お寺とつきあいを続けるということは、いろいろと大変な事です。

2008年11月16日

今日、ほんこさん(報恩講)がありました。

お布施1万円と、寺の維持費6千円(年額)を包んだのですが、月命日とほんこさんは別ということなので、月命日の分の御布施2千円を別に包みました。ほんこさんの食事代は別に包まないでも良いと母親が知人から聞いたらしく包みませんでした。

2016年8月30日

月命日のお参りに来ているお寺から封書が送られてきました。お寺から封書が送られてくる事なんてないので、お金の無心かなあと思ったら案の定でした。
「親鸞聖人7百五十回御遠忌・庫裏及び境内大規模修繕、内陣整備等懇志」のお願いということで、総額2900万円、門徒1軒あたり¥75,000円(15,000円×5年)ということです。
その他に特別永大経志で30万円以上のお願いというのも入っていました。こちらのほうは強制ではないようで納めると内陣の欄間裏に記名するということです。

2900万円の内訳は法要費¥7,500,000円、別院御依頼¥2,550,400円、庫裏及び境内大規模修繕¥11,988,000円、本堂欄間整備費¥6,962,600円ということです。

報恩講のお布施1万円、寺の維持費6千円(年額)、月命日のお布施(月額2千円)程度は、つきあいでさせていただいていますが、檀家でもないし、浄土真宗の信者でもないのに「親鸞聖人7百五十回御遠忌・庫裏及び境内大規模修繕、内陣整備等懇志」まで付き合わされたのではたまりません。謹んでお断りしようと思います。
今の時代、檀家として支えなければいけないお寺を持たないという事は、大いなる特権だと思っているので、父親が亡くなられてからも、檀家にだけは絶対にならないと思ってきました。そういう距離感でお寺とも付き合ってきたので、それは今後も変わりません。子供や孫など子孫に対して、そういう負担を押し付けないという事は、ある意味義務でもあると思います。

日本って、墓参りや葬式で仏教とかかわり、クリスマスでキリスト教とかかわり、初詣などで神社とかかわり、イスラム音楽を楽しんだり、そういう無節制なところが良いのだと思うんです。宗教の違いによって争うことも無いし、そういう面で平和で良いです。
もちろん、本気で宗教にかかわっている人については、それはその人その人なので別に否定するのものではないですけど。

2016年9月15日

今日、月命日のお参りの日だったので、檀家でないということと、檀家にだけは絶対ならないという意思表示をしました。