AERA 2017年8月7日号に興味深い記事があったのでメモしておきます。
創価学会では「友人葬」と呼ばれる独自の葬式に取り組んでいます。
一般的な仏教葬との最も大きな違いは、僧侶がいないこと。僧侶の代わりに、「導師」という古参の学会員が進行役を担い、遺族、親族、参列している学会員たちも一緒にお題目の「南無妙法蓮華経」を唱える。
友人葬は僧侶がいないため、お布施が必要なく、戒名もない。原則として香典も必要ないとされます。
<「葬儀で僧侶が引導文を読み上げないと成仏しない」、また「故人に戒名が必要である」という考え方は、仏教の開祖である釈尊(釈迦・仏陀)の考えにはありませんし、仏教の本義に照らして正しいものとはいえません>
<仏法では成仏はあくまでも故人の生前の信仰によるものと考えられています。創価学会は、葬儀でなによりも大切なのは故人を悼む、「まごころ」からの題目による追善回向だと考えます。そうした意味から、友人葬こそ仏法の精神にもっともかなった、仏法の本義に則った葬儀であるといえるのです>
友人葬でも葬儀会場代などの最低限の経費はかかるし、香典が必要ないというスタイルゆえ、その大半が遺族の持ち出しとなります。
創価学会員以外からも、「友人葬」をやりたいという申し出があるとのことです。
だれが墓を守るのか 小谷みどり著を読んでみました。
全国平均で火葬が50%を越えたのは1935年(昭和10年)で一般的(○○家の墓)な墓が建立され始まるのは、せいぜい明治時代の終わり以降ということです。1970年でも20.8%が土葬されていたそうです。
つまり墓という物は、宗教的には根拠が無く一種の流行のようなものだと考えられます。
核家族化が進展し、子々孫々で墓を継承するという社会的環境が失われ、無縁墓が増加しているのが現状のようです。
2011年の人口移動調査によると、居住地が出生地と同じ人は10.7%だったそうです。
家族みんなで墓参りに行くにも交通費や宿泊費がかかり、墓が傾斜地にあると年をとると墓まで歩くのも負担だし、草むしりや墓掃除のも重労働になる。
一度、墓を建てれば、墓を片付けたい(墓じまい)するにも多大な費用がかかるし、墓を継承する子供の負担を考えて、お墓を建てないことを選択する人が増えているようです。
1990年に総理府が実施した「墓地に関する世論調査」では共同参拝墓地をどう思うかの質問に対し、墓地としてふさわしくないと回答した人が42.6%だったものが1998年の20歳以上の男女を対象にした墓地に関する意識調査では、ふさわしくないと回答した人は14.6%だったようです。
散骨についても1990年に総理府が実施した「墓地に関する世論調査」では認めるべきではないという回答が56.7%でしたが、1998年の20歳以上の男女を対象にした墓地に関する意識調査では、好ましくないという回答が14.7%だったそうです。
宗教学者の島田裕巳氏は、遺族が火葬場から遺骨を引き取らない選択をゼロ葬と呼び、これこそが墓を建てる、守るといった心理的負担、金銭的負担から開放される手段だと主張し注目を集めたそうです。
月刊北国アクタス2015年10月号で「終活」に関する特集記事が掲載されていました。
墓を建てないという選択をする人が増えているという事で、永代供養墓や納骨堂として金沢の法句寺が紹介されていて50回忌まで保証してくれ料金が50万円前後だそうです。
少子化や核家族化によって、墓の守り手がいなくなったり、子供達に墓の守り手としての負担をかけたくないとの事で、最近では現在ある墓を費用をかけて「墓じまい」して、永代供養墓や納骨堂に移す例も多いそうです。
高岡市の日蓮宗大法寺では、ゆうパックで送られた遺骨を永代供養墓に葬るサービスを行っているそうです。
小松市の真宗大谷派本光寺では、行き場の無い遺骨を無償で弔う事も行っているそうです。
内灘町では2016年に、公営の納骨堂をオープンするそうです。
お墓って、もともとあった習慣でもなく、歴史もそれほどあるものでもなく流行みたいなものなので、必須の物という訳ではないので、、公営の納骨堂があれば、それが一番理想的なような気がします。
最近、一般的な葬儀を行わない葬儀が増えてきているとは聞いていたけど、金沢でも約4割が家族葬などになっているそうです。
家族葬などの場合は、通夜や葬儀の日時・場所を知らせる必要がないため新聞掲載をしないのが一般的とのことで、2012年ごろから、おくやみ欄の掲載数が急減しているそうです。
お墓、葬式、戒名は本当に必要か/ひろさちや著 を読んでみました。
現在における冠婚葬祭といった習慣は一種の流行で、定着したのは戦後になってからだそうです。
2014年の調査によると、関東地方では22.3%が火葬場での直葬になっているそうです。
平安時代末期から鎌倉時代の法然や親鸞は、「南無阿弥陀仏」と称えるだけで、誰もが極楽世界にできると教えています。ちなみに親鸞は自分が死んだら賀茂川に流して魚の餌とせよと遺言しているそうです。
つまり仏教においてはお葬式ははしなくてもよく、それが仏教の教えなんだそうです。
仏教においては、元々、葬式という概念は無く、神道においての行事だったのだそうです。神道について、葬式は死者の霊魂をホトケにするためのものだったそうです。
33回忌、50回忌という概念も神道のもので、この世に対する執念をもった霊魂は荒御霊(ホトケ)であり、荒御霊に鎮魂儀礼を施すことにより、落ち着いた柔和な和御霊(カミ)になるそうですが、荒御霊が和御霊になるためには33年から50年かかるといところから来ているそうです。つまり仏教とはなんの関係も無いそうです。
四十九日は、インドにおいて、輪廻転生の考え方から、死者は四十九日で再生するので死者への追悼を四十九日で打ち切るという風習から、神道が影響を受けて四十九日が特別な日になったそうです。そういう訳で、インドにおいては四十九日が過ぎると、死者への追悼はしないそうです。
3回忌は儒教では父母のために子は3年間(足掛け3年なので25ヶ月)喪に服さねばならないとされるところからきているそうです。
お盆も神道の行事で、1960年ごろまでは浄土真宗においてはお盆の行事は行わなかったそうです。
ちなみに、お盆に帰ってくるのはカミになっていないホトケの段階での霊だけだそうです。
火葬が普及したのは1980年代以降 火葬は元々インド人がやっていたもので、焼け残った骨すべてをガンジス河に流していて、火葬をして骨を墓に埋葬するのは日本だけの特異な葬法ということです。
墓は、死体を埋葬したあと、そこに大きな石を重しとして置いて、死体が墓穴から出てこないようにしたものが起源だそうです。
現在のように、仏教が葬式仏教になってしまったのは、キリシタン対策のために江戸時代に導入された寺請制度(檀家制度)の影響だということです。寺請制度(檀家制度)によって、檀家のお布施が義務になって、信仰の布教が必要なくなり、菩提寺を粗末に扱っていると宗門人別改帳に請印捺さないと圧力をかけたりすることになったりしたそうです。しまいには、仏教寺院が「御条目宗門檀那請合之掟」を偽作して、寺の行寺に参加すること、寺の雑役・修理・建立をつとめること、葬式には檀那寺の差図を受けること、死者に剃刀を与え、戒名をつける際は、住持が死相をよく見届けた上で引導を渡すこと、中陰・年忌・命日あるいは先祖供養を怠らないことなどの「掟」を細々と規定して、お寺の収入を増やしていったそうです。
もともと江戸時代以前の庶民は、年忌法要はやっていなかったそうです。このようにして、年忌法要は江戸時代に寺院が金儲けのために始まったそうです。
寺院消滅(鵜飼秀徳著)を読みました。
現在、全国に約7万7千の寺院があり、その内住職がいない無住寺院は約2万に達していて、宗教活動を停止した不活動寺院は2千以上あるとのことです。
不活動寺院を廃寺にしようとしても、お寺は通常独立した個々の宗教法人なので、手続きが大変のようです。住職や寺の責任者、檀家総代、寺族の所在の確認をしての手続きが必要で、そのうえ解体費用がかかるので、そう簡単にはいかないそうです。
そもそも、今のようにお寺が尊敬されない存在になった最初のきっかけは、江戸時代の寺請制度だということです。寺請制度は、地域の寺の檀家になることを強制し、寺は宗門人別改帳を通じて、檀家の管理・監視することによって国家の内部統治に協力したということです。
でも江戸時代後期から明治9年頃にかけて、廃物毀釈により仏教弾圧が行われ、多くの寺院が廃寺になり仏像などが破壊されたそうです。これにより仏教の弱体化が図られたそうです。
明治5年に「自今僧侶肉食妻帯蓄髪等可為勝手事」があり、僧侶の「肉を食べる・妻をめとる・髪を生やす」ことを解禁し、住職の世襲も明治以降認められるようになっていき、僧侶の世俗化が図られ、僧侶が尊敬の対象ではなくなっていくことになったようです。
その後、過去の戦争について、不殺生戒を真っ先に守らなければいけない立場の僧侶が、大東亜戦争に反対するどころか、多くの宗派ではゼロ戦や軍艦を国に寄付したり、戦争協力を申し出たりして戦争に加担したことにより、国民の信頼を失ったようです。
それに加えて、戦後のGHQが指導した「農地改革」により地主として多くの土地を小作に貸していた寺院所有の農地が失われ、安定した収入が失われ、寺院の弱体化が決定付けられたようです。
お寺が専業で食べていくには檀家が200軒以上ないと難しいそうです。
葬儀のお布施は地域によって随分違うようで、東京は極めて高く50万円、京阪神や名古屋は20万円から30万円、地方都市だと10万円、地域によっては3万円から5万円というところもあるようです。
檀家が少なく収入が少ない寺院も宗に収める冥加金は結構な高額で、お寺も、いろいろと大変なようです。
お寺の収支報告書/橋本英樹 祥伝社を読んでいます。曹洞宗の実際の住職が、現在のお寺経営のお金と制度の問題を執筆した本です。
現在のように、住職が妻帯して息子がお寺を継ぐようになったのは明治時代からのことで、せいぜい100年の歴史ということだそうです。
戒名って、戒名を授かる事によって僧侶(仏弟子)になるってことだそうです。つまり死後に出家するってことだそうです。こういう死後に出家するというシステムも江戸時代以降のものだそうです。
戒名も階級化されていて、戒名を授かる時にも階級によって支払うお金は違いますが、法事でも戒名の階級によってお布施の金額が違うそうです。
戒名なんて、いらんよねえ。最近では、俗名での葬儀も増えてきているそうです。
ちなみに檀家制度というのも、江戸時代にキリスト教禁制のために「寺請制度」というものが制定されて日本に住むすべての民衆は幕府が定めた仏教宗派のいずれかに属さなければいけなくなったのが事の始まりで「寺檀制度」「宗旨人別改帳」を経て現在に至っているそうです。
葬祭にかかる費用についても祭壇に飾る花代が何十万もするのですが、普通バラ1本100円もしなく500本飾っても5万円にもならないなんて事も書かれていたりします。
葬祭業者に僧侶を頼んだりした場合でも僧侶のお布施の半分以上を中抜きされる例も少なくないそうです。葬儀には複数の僧侶が関わることが多いのですが、中心になる僧侶(導師)に、残りの僧侶(脇導師)を呼んでもらう場合も、僧侶(導師)に中抜きされるのが一般的との事です。葬祭業者に頼んだ場合、僧侶(脇導師のお布施は、葬祭業者とと僧侶(導師)に2重に中抜きされることも多いようです。
墓地については、「埋葬又は焼骨の埋葬は、墓地以外の区域に、これを行ってはならない」という法律があり、散骨や自然葬も厳密に言うと法律違反になるようですが黙認されているそうです。
墓地は、市町村などの公営、公益法人(認定が難しい)、お寺が関わる墓地の3種類が中心ですが、石材業者などが運営している墓地は、お寺の名義だけ借りて運営している場合が多いそうです。お寺から管理と運営を委託されている形をとっているそうです。墓石を販売して、墓が売れなくなった墓地は、お寺に運営の権利を渡してしまうという例も多いとの事です。お寺は土地が増えて、年間の管理料や護持会費が入ってくるのでお互いの利害関係が一致するということです。
それだけ墓石の利益が多いということなんでしょうが、墓石の原価率って150万円から200万円の墓石で問屋原価が30万円ほどだそうです。もちろん加工も必要だし、年がら年中墓石の需要があるわけではないでしょうけど。
お寺が経営する墓地では、お寺に入る墓石のマージン(お水代)は10~20%だそうです。その他に建墓手数料や別途志納金を納めてくださいと言われたりするようです。
墓地には、年間の管理料や護持会費などは別途かかります。永代使用料を支払っても年間の管理料や護持会費を払い続ける必要があります。年間の管理料や護持会費を払わなければ墓は撤去されますし永代使用料も返還されません。
筆者である僧侶は、それらの矛盾した制度を廃止したうえで、お寺の運営を続けているとのことです。読んでみる価値はあると思います。
まあお寺がたくさんあるのも金沢の要素の1つなのでお寺が無くなっていくのも寂しいものがありますが、今のままで良いって感じもしませんよねえ
金沢東別院の公開講座の最終回は行きませんでした。そのかわり行きそびれた2回目の講師の著書「納棺夫日記」を読みました。納棺夫で体験した事を書かれているのかと思っていたのですが、そういう内容はごく一部で、ほとんどが作者である青木新門氏の浄土真宗論って感じの本でした。
この本でも、そうなんですが、浄土真宗の講座や法話とかを聞いていると、浄土真宗にとって一番大切な事って死に対する不安と、生きることの不安を感じる必要がないというのが本質のような気がします。極端な話、生きている時に殺人や、その他に一般的に悪いと考えられている事をしても、死ぬとみんな阿弥陀様のお導きによって仏に帰るので、なんの不安も感じなくても良いですよということのようです。
生きている時に、一般的な考え方から考えられる不満や不安、諦めは仏法とは全然違う価値観によってもたらされるものなので、悲観することは無いですよ。生きていく(生かされている)事自体に意味があるので、生かされることに対して感謝の気持ちを持ち続けなさいっていう事のようです。生きていく上で、一般に悪いと言われることを、しなければ生きていけない事に遭遇するかもしれないけど、それも与えられた人生でもあり、仏法の価値観の中では意味がないことなので、くよくよすることなく安らかな気持ちで生きていけば良いですよという話が多いです。
浄土真宗の場合は死ぬとみんな仏になるので、本来、浄土真宗には死者を弔うという意味では法要は必要ないのでしょうけど、法要を無くしちゃうとお寺の収入が無くなり、お寺が存続できなくなっちゃうので法要をやっているんだろうなあって思う。まあ法要することによって、法話を聞いたり、死について考える機会ができるということで親鸞の教えに触れさせることが出来ると意味でも大切だというのが大義名分だと思うのですけど。まあ金沢の町並みにとって寺院というのは重要な位置を占めるので寺院を存続させる事の重要性は否定しないのですが。
まあ、そんなことを考えさせられる今日この頃です。
親の法要はできるかぎりのことはしてあげようと思うけど(親はそれを望んでいると思うし)、自分が死んだら無宗教で簡素な葬儀をしてもらうように遺言を書いておこうと思います。
そのためにも、葬儀のことを、いろいろ調べようと思ってます。