金沢東別院の公開講座の最終回は行きませんでした。そのかわり行きそびれた2回目の講師の著書「納棺夫日記」を読みました。納棺夫で体験した事を書かれているのかと思っていたのですが、そういう内容はごく一部で、ほとんどが作者である青木新門氏の浄土真宗論って感じの本でした。
この本でも、そうなんですが、浄土真宗の講座や法話とかを聞いていると、浄土真宗にとって一番大切な事って死に対する不安と、生きることの不安を感じる必要がないというのが本質のような気がします。極端な話、生きている時に殺人や、その他に一般的に悪いと考えられている事をしても、死ぬとみんな阿弥陀様のお導きによって仏に帰るので、なんの不安も感じなくても良いですよということのようです。
生きている時に、一般的な考え方から考えられる不満や不安、諦めは仏法とは全然違う価値観によってもたらされるものなので、悲観することは無いですよ。生きていく(生かされている)事自体に意味があるので、生かされることに対して感謝の気持ちを持ち続けなさいっていう事のようです。生きていく上で、一般に悪いと言われることを、しなければ生きていけない事に遭遇するかもしれないけど、それも与えられた人生でもあり、仏法の価値観の中では意味がないことなので、くよくよすることなく安らかな気持ちで生きていけば良いですよという話が多いです。
浄土真宗の場合は死ぬとみんな仏になるので、本来、浄土真宗には死者を弔うという意味では法要は必要ないのでしょうけど、法要を無くしちゃうとお寺の収入が無くなり、お寺が存続できなくなっちゃうので法要をやっているんだろうなあって思う。まあ法要することによって、法話を聞いたり、死について考える機会ができるということで親鸞の教えに触れさせることが出来ると意味でも大切だというのが大義名分だと思うのですけど。まあ金沢の町並みにとって寺院というのは重要な位置を占めるので寺院を存続させる事の重要性は否定しないのですが。
まあ、そんなことを考えさせられる今日この頃です。
親の法要はできるかぎりのことはしてあげようと思うけど(親はそれを望んでいると思うし)、自分が死んだら無宗教で簡素な葬儀をしてもらうように遺言を書いておこうと思います。
そのためにも、葬儀のことを、いろいろ調べようと思ってます。
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